どうも、ズワイガニです。
泣く子も黙るジャズ界の帝王、マイルス・デイヴィス。 常にクールで妥協を許さないイメージの彼ですが、当然ながら「新人時代」がありました。
今日は、若き日のマイルスがニューヨークへ乗り込み、モダン・ジャズの父であるチャーリー・パーカーと同居していた頃のエピソードを紹介したいと思います。
マイルス、ジャズをしにニューヨークへ
1944年、イースト・セントルイスからニューヨークへ一人の青年がやってきました。18歳のマイルス・デイヴィスです。
名門ジュリアード音楽院に入学するため・・・というのは建前で、本当の目的は本場のジャズを体験すること。 父親の手前、最初の1年間は真面目に通ったそうですが、次第に興味のある授業にしか顔を出さなくなりました。
当時のニューヨーク、特にハーレムや52丁目界隈はジャズ・クラブがひしめき合う黄金時代。マイルスは、憧れのディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカー(通称:バード)を血眼になって探し回ります。
あまりに熱心に捜索しすぎて、1週間で1ヶ月分の生活費を使い果たし、父親に泣きの電報を打ってお金を送ってもらったという逸話があるほどです。

マイルスは当時かなり幼く見えたらしく、クラブに入る際、18歳だと信じてもらえずに何度も学生証を見せなければならなかったそうじゃよ。
捜索開始から約1ヶ月。ついにハーレムのジャズ・クラブ『ヒート・ウェイヴ』にチャーリー・パーカーが出演することを知り、マイルスはついに本物のバードと対面を果たします。
マイルス、チャーリー・パーカーと同居する
当時のパーカーは、定まった家を持たず、ホテルを転々としながら金が尽きたらライヴをするという破天荒な生活を送っていました。
そんな憧れのスターに対し、マイルスはなんと「一緒に住まないか?」と提案します。
こうして始まった奇妙な同居生活。しかし、パーカーはほとんどアパートにおらず、帰ってきたと思えばいつの間にか消えている。結局、同居しているのにマイルスは相変わらずパーカーを探し回る日々だったそうです。
この同居生活の中で、マイルスが驚愕したエピソードがいくつか残っています。
パーカーの音楽的知性
ある時、マイルスがジュリアード音楽院で学んだ音楽理論を教えたところ、パーカーはすでにそのすべてを直感的に理解していました。
パーカーは譜面もそんなにうまく書けない、なんならパーカーのメロディを代筆したこともあるマイルスは、びっくりしたそうです。
サックス奏者が吹くトランペット
またある時、パーカーがマイルスの楽器を借りてトランペットを吹いた際、マイルスは「俺よりもうまくて、バードには敵わない」と脱帽したそうです。
マイルスの「スタイル」を決めたバードの助言
マイルスは、基本的にパーカーの演奏を聴いて学んでおり、直接手ほどきを受けることはほとんどありませんでした。しかし、あるインタビューでマイルスは非常に重要なエピソードを語っています。
当時、誰もがディジー・ガレスピーのような超絶技巧で速いパッセージを吹くことに憧れていました。マイルスも必死に練習していましたが、それを見たパーカーはこう告げたのです。
「真似をするぐらいなら、どうやれば自分の個性が表現できるか考えろ。お前はスペース(間)を活かしたフレージングに良いものがある。それに磨きをかけるべきだ」
周りがスピード狂のように吹きまくる中で、この言葉にマイルスは救われました。音を詰め込まず、一音の響きと「間」を大切にするマイルス・デイヴィスの生涯のスタイルは、このバードの助言から始まったのかもしれません。
破局とその後
結局、この同居生活は最悪な形で幕を閉じます。 重度の薬物依存だったパーカーが、売人に対して「金は同居人のマイルスが払う」と勝手に名前を使い、マイルスの元に取り立てが来るようになったのです。
これには流石のマイルスもブチギレ、1944年末に同居を解消。しかし、マイルスの才能を認めていたパーカーは、翌年1945年に自身のバンドのトランぺッターとしてマイルスを大抜擢します。
その後の活躍は、また別の機会にお話ししましょう。

おわりに
マイルスは後年のインタビューで、パーカーについてこう語っています。
「散々迷惑をかけられたが、それでもバードとのことはすべてが財産だ。彼から多くを学んだし、ジャズの世界に入る最高のきっかけを作ってくれたから」
破天荒な天才と、それを追いかけた真面目な秀才。 二人の出会いがなければ、私たちが知る「帝王マイルス」は誕生していなかったかもしれませんね!


