フレッチャー・ヘンダーソンの栄光と挫折

JAZZあれこれ

どうも、ズワイガニです。

ルイ・アームストロング、コールマン・ホーキンス、アート・ブレイキーなど、有名プレイヤーが多数所属していたフレッチャー・ヘンダーソン楽団。

スウィングの時代を築いたベニー・グッドマンに編曲を提供したのはフレッチャー・ヘンダーソンでした。

しかし、彼は時代に恵まれなかった。

今回は、そんなフレッチャー・ヘンダーソンについて紹介します。

 

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フレッチャー・ヘンダーソンの栄光

スウィング・ジャズが流行る前の1920年代前半、ピアノの伴奏として巡業していたフレッチャー・ヘンダーソンは巡業中にジャズの奏法を習得しました。

巡業からニューヨークに戻ったのち、『クラブ・アラバム』のオーディションに合格し、本格的にジャズ演奏家として活動することになります。

この時のバンドで、唯一の大学に通っていたということでヘンダーソンがリーダーになりました。

この人選がのちに大変なことになるのですが…。

『クラブ・アラバム』から『ローズランド・ボールルーム』で演奏していた時代(1924-1928年)が、ヘンダーソンの絶頂期と言われ、ルイ・アームストロングやコールマン・ホーキンスらスタープレイヤーを数多く輩出しました。

しかし、この時代を境に不遇の時代を過ごすことになるのです。

 

フレッチャー・ヘンダーソンの挫折

ヘンダーソンは、リーダーとしての資質がなかったと言われています。

その理由は、マネジメントに問題がありメンバーの無断欠席や遅刻が目立つようになったとか商売ベタでタダ働きをしたりとか。

そのことにホール経営者が気づき出した1928年、ヘンダーソンは交通事故に遭ってしまいます。

そんな状況により1929年『ローズランド・ボールルーム』はヘンダーソン楽団と契約をしなくなりました。

その後は不況のため、パッとしない年が続き、ついには1934年にバンドを解散することになります。

 

フレッチャー・ヘンダーソンの復活

バンド解散後、ヘンダーソンはベニー・グッドマン楽団に過去の編曲を譲り渡したところ、なんと空前のスウィングブーム到来!

そのほかにも最新のスウィング編曲も依頼されたりして、編曲家として認知されるようになりました。

復活のフレッチャー・ヘンダーソンであります。

しかし、ベニー・グッドマンがヘンダーソン楽団が演奏していた10年も前の編曲でスウィングブームを巻き起こしたというのは、人種的な問題やバンドそのものの人気もあるかもしれませんが、時代的に早すぎたということなのでしょうか。

その後のヘンダーソンはバンドを再編して、1939年まで『グランド・テラス』に出演しました。

 

フレッチャー・ヘンダーソンのその後

1940年以降は、ベニー・グッドマンに編曲を提供したり、バンドを再編したりを繰り返したのち、療養に入ります。

1950年にニューヨークの『バップ・シティ』に出演したときには、客がほとんど来なくて、すぐにバンドを解散したといいます。

ラストステージは出演中に脳卒中で倒れ、療養を経て、1952年に亡くなりました。

 

フレッチャー・ヘンダーソンの功績

カウント・ベイシー「私のバンドを導いてくれたのはヘンダーソンだった。」

デューク・エリントン「当時のヘンダーソン楽団は空前のダンスバンドとして誰もが忘れ得ないだろう。天下無敵の演奏をした。一人一人のミュージシャンが皆偉大だったのだ。」

出典:ジャズの歴史物語 著:油井正一(角川ソフィア文庫)より

彼がいなかったらスウィングブームは到来しなかったかもしれません。

ヘンダーソン楽団がビッグバンドの王道パターンを作り上げたのは、ルイ・アームストロングを雇用したときでした。

それから、華やかなソロイストの存在によって、現代のビッグバンドに至るまで、その王道パターンは受け継がれています。

『Sugar Foot Stomp』は、ルイ・アームストロングのトランペットをフィーチャーした1925年の曲です。

 

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