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ジャズの高僧 セロニアス・モンクの苦労話

JAZZあれこれ

どうも、ズワイガニです。

ビ・バップ初期からのピアニストの巨星、セロニアス・モンク。

無口で物静かな彼はなかなか大変な目に遭っていました。

今回は、セロニアス・モンクの苦労話を紹介します。

 

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ビ・バップの主流から外れてしまう。

セロニアス・モンクは、19歳でミントンズ・ハウスでピアニストになり、ビ・バップの誕生を経験しました。

戦後に盛んになったビ・バップでしたが、主流から外れた独特なスタイルのモンクのピアノは、共演者から歓迎されず、ついには定職を失ってしまいました。

モンクのスタイルはバッパーでは無かったので、時代のニーズに合わなかったのかもしれません。

この頃に、『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』や『ウェル・ユー・ニードント』などの名曲を作りました。

1947年にネリー・スミスと結婚し、定職の無いモンクの代わりにネリーが勤めに出て、なんとか生活をしていたといいます。

この年に、ようやく自身のレコードをブルー・ノートで録音しています。

 

バド・パウエルの車で検問に遭った結果…

1951年、生活は困窮していましたが、さらなる辛い出来事が起こります。

バド・パウエルの車に同乗している時に、検問に遭い調べられると…

なんと車内からヘ○インが発見されたのです。

モンクは薬物をしないことはみんな知っていましたが、モンクは黙秘し続け、2人は有罪になってしまい、結果、60日間の禁固刑となりました。

なんていうことでしょう、モンクはバド・パウエルだけが捕まることを許さなかったわけですね。

少年漫画の主人公のような漢気やな!

もちろん妻のネリーは呆れ返ったといいます。

 

キャバレー・カードを失う

出所すると、キャバレー・カードを取り上げられてしまいました。

これが無いと、ニューヨークの酒場では働けません。つまり、ニューヨークのクラブで演奏する機会を奪われてしまったわけです。

代償は思ったよりデカかった…。黙秘しただけなのに…。

しかし、モンクはプロフェッショナルでした。

モンクは演奏以外の仕事はしません!奥さんの負担はでかい!

この時期にモンクが演奏以外の仕事をしたのは、友人の家具移動の手伝いだけだったという。

なので、モンクの仕事は、レコーディングと出稼ぎの演奏のみ。

このままでは生活がヤバイ…一体どうなるのでしょうか!?

 

キャバレー・カードを取り戻す

この大変な時になんとスポンサーが現れます。モッてる男だ!

パノニカ・ド・ケーニスウォーター男爵夫人という人でした。

彼女は、モンクのマネージャーや親友らと共にモンクが薬物患者では無いことを証明し、1957年についにキャバレー・カードの再交付に成功しました。

そして、『ファイブ・スポット』を長期契約を結び、ジャズ界のメインストリームに舞い戻ったのです。

ようやく日の目を浴びる時が…!?

 

再びキャバレー・カードを失う

しかし、1958年10月のこと、事態は急変します。

パノニカ夫人たちとデラウェアの出演地に向かっていたモンクは、途中喉が渇いたのでとあるモーテルの事務室に行って水をもらいました。

飲んですぐ去れば良いものを、水を飲みながら意味もなく事務室をウロウロしていました。

モーテルの人がだんだん怖くなってきて、別の部屋から「事務所が物色されている」と110番してしまいます。

警察が来た時にはモンクは運転席にいて、警察から出るよう言われましたが、思い当たることが無いので出ようとしません。

すると、警察は警棒でモンクの手の甲を叩いてこう言いました。

「車のトランクからマ○ファナが見つかった。」

完全に罠です。ひどすぎます。

こうして留置所に入れられたモンクは、再びキャバレー・カードを失うことになりました。

やっぱりモッてない男だった!

 

再びキャバレー・カードを取り戻す

その後、パノニカ夫人が2年間法廷で争った結果、無罪が確定し、モンクのキャバレー・カードは再再交付されることになりました。

こうしてようやく災難から解放されることになり、1960年代のモンクは、順風満帆に音楽活動ができたのでありました。本当によかった!

 

おわりに

今回はセロニアス・モンクの苦労話を紹介しました。

モンクは無口で礼儀正しい人だったそうですよ。

彼は、多くの名曲と演奏を残しているので、ジャズ素人は是非聴いてみてくださいね。

 

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