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トニー・ウィリアムスがマイルス・バンドに入るまで

JAZZあれこれ

どうも、ズワイガニです。

今回は、黄金クインテットのドラムスを務めた神童トニー・ウィリアムスが17歳でマイルス・バンドに入るまでについてお話します。

 

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16歳でニューヨークに

13歳のころからボストンの『コノリー』というナイト・クラブにハウス・ドラマーとして出演していたトニー・ウィリアムス。

アメリカ中からボストンにやってくるミュージシャンとセッションを重ねていたある日、ジャッキー・マクリーン(as)がやってきました。

1週間にわたり共演したのち、ジャッキーは「トニー・ウィリアムスをニューヨークに連れて帰りたい」と言い出しました。

当時16歳のウィリアムスは冗談半分で「母親に聞いてほしい」と返答しました。

すると、ジャッキーは本当に家までやってきて、母親の許可を取ったのです。

いつもウィリアムスのことを尊重していた母親の優しい決断でもあります。

そして、62年11月にジャッキーとの『コノリー』での共演を終えてすぐにニューヨークに出ることになります。

 

ニューヨークでの最初の仕事

ウィリアムスがニューヨークへやってきた最初の仕事は、なんと演劇でした。

『ザ・コネクション』というジャズメンや薬物について取り上げたオフ・オフ・ブロードウェイの劇で、劇中音楽も以下レコード化されています。

※オフ・オフ・ブロードウェイ劇場とは、ブロードウェイおよびオフ・ブロードウェイ劇場(100席から500席未満の劇場)よりも小さい通常は100席未満のニューヨーク市の劇場を指す。オフ・オフ・ブロードウェイ運動は、ドラマや演劇の反商業的かつ実験的または前衛的な運動の一環として1958年に始まったのがきっかけ。

そのキャストとして、ジャッキー・マクリーンやフレディ・レッドの他、ウィリアムスも出演していて、ちゃんとセリフもあったそうですよ。

14丁目の『リヴィング・シアター』で2,3ヶ月ほど出演していたといいます。

 

ニューヨークでの最初のバンド活動

『ザ・コネクション』に出演する傍ら、ジャッキーのバンドで活動していたウィリアムス。

メンバーは、ドナルド・バード(tp)やブッチ・ウォーレン(b)がいて、ピアノはハービー・ハンコックが務めたりすることもあったり固定ではなかったそうです。

そして、63年4月になり、ジャッキーはバンドを新編成することにします。

メンバーは2人の他、グラシャン・モンカー3世(tb)、ボビー・ハッチャーソン(vib)、エディ・カーン(b)のピアノレスのクインテットでした。

しったかJAZZ博士
しったかJAZZ博士

このころのジャッキー・マクリーンはオーネット・コールマンの影響を受けてフリー・ジャズに取り組み始めた時期じゃな。

そして、このバンドで最初のレコーディング(『ワン・ステップ・ビヨンド』63年4月30日録音)を行った直後、マイルス・バンドに加入することになります。

ウィリアムスは、このアルバムでニューヨーク・デビューを果たして、すぐにマイルスに抜擢されたんですね。

 

マイルスから電話がかかってきた

ウィリアムスとマイルスは面識がありませんでした。

なぜトニー・ウィリアムスに白羽の矢が立ったのでしょうか。

『ワン・ステップ・ビヨンド』のレコーディング後、マイルスはブルーノートのアルフレッド・ライオンにこのテープを聴かせてもらったそうです。

また、ジャッキーと演奏しているものを実際に聴いたといいます。

そして、5月に入ったある日、友人から「マイルスがお前を探して、家に電話がかかってきた」と言われます。ウィリアムスはほとんど家にいなかったため、友人宅に電話するマイルス。

ウィリアムスは、「まさか」と思ってあまり本気にしていませんでしたが、その後本当にマイルスから電話がかかってきてびっくり。翌週にニューヨークに戻るマイルスと会う約束をします。

そして翌日、一度もリハーサルをせずにコンサートに出演、さらに次の日にはレコーディング(『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』63年5月13日録音)に参加しました。

このアルバムは、2,4,6曲目にトニー・ウィリアムスとハービー・ハンコックが参加しています。

マイルスに初めて会った際、「良いピアニストはいないか」と聞かれ、ハービーを推薦したといいます。

ここから『黄金クインテット』の時代がやってくるのです。

 

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