どうも、ズワイガニです。
ルイ・アームスロングの歌声は誰もが聴いたことがあるのでは無いでしょうか?
今回は、サッチモことルイ・アームストロングを紹介します。
ルイ・アームストロングはなぜサッチモと呼ばれているのか
ルイ・アームストロングはサッチモの愛称で親しまれています。
なぜサッチモと呼ばれているのでしょうか?
その理由は口の大きさから来ていて、以下の言葉から来ているそうです。
小学校のときは、『Dipper(がま口の意味)』と呼ばれていたそうですよ。
誰もが聴いたことがあるサッチモの曲を紹介
サッチモの誰もが一度は聴いたことがある曲を紹介します。
『What a Wonderful World』
この曲は平成世代で言えばスウィング・ガールズのEDに使われていたり、山寺宏一さんがモノマネしていたりしていますが、有名すぎるので聴けばわかると思います(笑)
『Hello, Dolly!』
この曲は、キリンビール『一番絞り』のCMなどで使われていますので、聴いたことがあるのではないでしょうか?
『聖者の行進』
この曲はゴスペルソングをジャズアレンジして録音された最初の曲です。
当時としては画期的だったため、結構批判的な意見も多かったそう。
しかし、これがきっかけでのちに『モーニン』などのジャズとゴスペルの融合曲が生まれたのかもしれません。
この曲も一度は聴いたことがあると思いますよ!
牧師に扮したサッチモの説教から始まるエンターテイメントな曲になっています。
コルネットを始めたきっかけがまさかの少年院
1901年にニューオーリンズに生まれたルイ・アームストロングは生まれてすぐ両親が離婚をしたので、祖母の元で育てられたといいます。
祖母は毎週日曜日に、ルイを連れて協会に出かけました。
その時に出会ったのがゴスペルであり、ルイにとって最初の音楽体験でした。
この原体験からジャズとゴスペルの融合が生まれたのかもしれません。
当時のニューオーリンズはまだストリーヴィルという歓楽街がありました。
そこにある酒場では、のちにジャズになる音楽が演奏されており、今まさにニューオーリンズ・ジャズが誕生しようとしていました。
さて、ルイはというと、11歳になるまで特に楽器を始めていません。
きっかけは、11歳のころに大晦日のパレードで38口径ピストルをお空にぶっ放したことから始まります。
ん?何言ってんの?と思うかもしれませんが、この事件(うん、立派な事件ですね笑)によりルイは少年院に入れられることになりました。
少年院ではブラス・バンドがあり、休日になると街中を演奏しながら行進する行事が毎週行われていました。
ということで、ルイは少年院のブラス・バンドで楽器をスタートすることになるのです。
ルイはタンバリンからスタートしましたが、さすがはのちの大スター、どんどん楽器が昇格していって、ついにはコルネット担当になります。
その後、ブラス・バンド・リーダーにもなり、ルイが街中で演奏すればいつもよりチップが集まったそうです。
出所したルイは、当時最高のコルネット奏者であったキング・オリバーに師事し、腕を磨いていましたが、言うてる間にストーリヴィルが閉鎖されてしまいました。
仕事を失ったキング・オリバーはシカゴに旅立ち、ルイはオーケストラに所属して各地で巡演していました。
そして、キング・オリバーが数年後自身のバンドにルイを呼び寄せたとき、ルイの腕がめちゃくちゃ上がっていて驚いたそうです。
現在のビッグバンドの形はサッチモの入団から始まった
シカゴに移ったルイの演奏は、たちまち話題を呼び、ニューヨークのフレッチャー・ヘンダーソン楽団から誘いを受けました。
フレッチャー・ヘンダーソン楽団はフレッシュな楽団でしたが、キング・オリバー楽団が落ち目であったこともあり、妻の勧めで入団を決めたという。
結局、ルイが在籍したのは1年ほどでありましたが、在籍した1年でフレッチャー・ヘンダーソン楽団はスタイルが劇的に変わりました。
これまでは譜面通りに演奏していることが一般的でしたが、ルイの演奏を聴いた編曲者のドン・レッドマンはルイ・アームストロングをフューチャーした曲作りにシフトチェンジしたのです。
この曲作りは、ルイが抜けたあとも受け継がれ、サックス奏者のコールマン・ホーキンスがサックスのアドリブ奏法を開拓し、『サックスの父』と呼ばれるようになります。
そして、ルイが在籍した1年で作られたこの演奏スタイルは今日のビッグ・バンド・スタイルの基本スタイルとなっています。
おわりに
今回はルイ・アームスロングの愛称の由来と初期エピソードを紹介しました。
これ以後のエピソードはまたの機会に紹介したいと思います!
コメント