デューク・エリントンの初めての海外公演

JAZZあれこれ

どうも、ズワイガニです。

ジャズの本場アメリカから初めて海外公演を行ったのはデューク・エリントン楽団でした。

その際、なんと御前演奏まで行なっているのですが、初めての海外公演はどのような様子だったのでしょうか。

今回は当時の模様をご紹介します。

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デューク・エリントンの当時の状況

初めて海外公演が行われたのは1933年。イギリスでの公演でした。

当時は世界恐慌による大不況で、大人数を抱える楽団にとってアメリカでの活動が大変な時期でもありました。そんな状況の中、デューク・エリントン楽団といえば、コットン・クラブとの4年契約を終えたところでありました。

これまでの活動により、デュークには熱心なファンがたくさんいましたが、「何か新しいことをしようとすると、せっかく出来た立派なイメージが崩れてしまうよ。」などとおせっかいな忠告をされることも多く、国内での活動に少し嫌気が差していたんです。

そんな時です。マネージメントをしているアーヴィング・ミルズがイギリス公演の話を持ってきたのは。

デューク・エリントンは海が怖かった

デュークはこの話に飛びつきました。さあイギリス公演だ!と思いきや、一つ問題がありました。

なんとデュークは海が怖かったのです!

16歳のときに読んだタイタニック号の遭難事故の話がトラウマで船も飛行機も乗れないという。のだめカンタービレの千秋先輩のモデルはデューク・エリントンかもしれない・・・(笑)

とはいえ、決まった仕事なので行かなくてはなりません。いざ汽船オリンピック号に乗り込みましたが、デュークは船上で嫌なことを聞いてしまいます。

「昼間は運転手が舵をとりますが、夜間はオート・パイロットによる自動運転になります。」

この話を聞いてデュークは心底心配になり、昼間は眠り、夜間は氷山にぶつからないよう監視を続けたという。

のちにデュークは語る。

「船の上で、たった一人起きているのは、大変心細かった。」

そりゃそうだ。

そして、デュークの心配をよそに、何事もなく船はサウザンプトン港に着くのでありました。

公演は散々だった

メロディ・メーカー紙が主催した第1回コンサートは散々だったそうです。

第1部に『エコーズ・オブ・ザ・ジャングル』『クリオール・ラプソディ』『ブラック・アンド・タン・ファンタジー』を演奏したのですが、トリッキー・サム・ナントン(トロンボーン)とクーティ・ウィリアムズ(トランペット)のソロをワーワー・ミュートを使って行うと、客席からは笑いが起こったという。

デュークは想定外の反応に慌てて、第2部以降の演目を変更することになります。

前回の反省を踏まえ、3週間後の第2回ロンドン・コンサートでは、開幕前にスパイク・ヒューズがステージに出て演説を行いました。

「トリッキー・サムのトロンボーンを笑ってはいけません。曲の途中での拍手はお控えください。」

しかしこの強要するような演説が悪評に繋がることになってしまいました。現地のジャズの理解者は少数派で、まだまだイギリスの一般大衆にとってジャズは理解されておらず、ワーワー効果がギャグとしてしか受け取られていなかったのです。

まさかの御前演奏!

すっかり気を落としてしまったデュークでしたが、まさかの吉報がもたらされます!

プリンス・オブ・ウェールズが、バッキンガム宮殿でデューク・エリントンの歓迎パーティを主催するというのです。なんと皇太子はデューク・エリントンのレコードを1枚残らず収集されている大のジャズ・ファンでありました!

皇太子の主催でしたが、表向きはビーヴァーブルック卿が主催、王室が臨席されるという形をとり、御前演奏が行われることになったのです。

そのときのエピソードに以下のような話があります。

御前演奏を行っていると、一人の青年がデュークに話しかけました。

「あなたのピアノソロで『スワンピー・リバー』が聴きたいのですが。」

それに対してデュークはこのように答えました。

「今夜はソロをやる気にならないので、失礼します。」

しかし、この青年こそ第2王子ヨーク公(のちのジョージ6世陛下)でありました。

あとで知ったデュークはそれはそれは恐縮したといいます。

また、御前演奏のあとに、デューク・エリントン楽団はスタジオでレコーディングを予定していました。ヨーク公はどうしても行きたい様子でしたが、警視総監が「警備が手薄になりますので。」と説得して断念したといいます。さらっと警視総監とか出てきちゃう(笑)

御前演奏の反響

御前演奏の反響はとても大きかった!イギリス国民は、王子たちが好きなジャズがどういうものか興味を持ち、評判の良くなかった初めての公演から一転、イギリスでジャズが受け入れられるきっかけとなったのです。

その結果、アメリカでは各レコード会社が瀕死状態であったにもかかわらず、イギリス向けのジャズ・レコードだけは特別注文で作られていたといいます。

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