マイルス・デイヴィスが新人だった頃の話【チャーリー・パーカーのバンド在籍時】

JAZZあれこれ

どうも、ズワイガニです。

モダン・ジャズの帝王として君臨したマイルス・デイヴィス。 しかし、彼にも「テクニックが追いつかない」「自信がなくてビクビクしていた」という、驚くほど初々しい新人時代がありました。

今回は、マイルスが天才アルト・サックス奏者、チャーリー・パーカーのバンドで揉まれていた頃のエピソードをご紹介します。

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マイルスが「ミントンズ・プレイハウス」に通い詰めた日々

ニューヨーク・ハーレムにある伝説のクラブ「ミントンズ・プレイハウス」

ここは営業終了後にミュージシャンが集まり、夜な夜なジャム・セッションを繰り広げて「ビバップ」という新しいジャズの形を作り上げた聖地です。

セロニアス・モンク(ピアノ)がハウス・バンドのリーダーを務め、毎週月曜日にはチャーリー・パーカー(アルト・サックス)やディジー・ガレスピー(トランペット)といった大物たちがこぞって参加していました。

そこに、ジュリアード音楽院に通う学生だったマイルスも加わります。 憧れのディジーがステージに呼んでくれるため、マイルスもたまに吹かせてもらえるのですが・・・現実は甘くありませんでした。

当時のビバップは、とにかく超高速テンポが当たり前。マイルスはテーマ(主旋律)すら満足に吹けないままソロの番が回ってきてしまい、恥ずかしい思いをすることも多々あったそうです。

しかしマイルスは後年、「あの過酷な環境で鍛えられたのが最高の経験だった」と語っています。

しったかJAZZ博士
しったかJAZZ博士

マイルス・デイヴィスが演奏するとき、チャーリー・パーカーはニタニタ笑いながら見てくるんじゃ。セロニアス・モンクに至っては知らんぷりを決め込んでいたそうじゃよ。

マイルス、パーカーのバンドに抜擢される

マイルスが「ミントンズ・プレイハウス」に通い始めて半年ほど経った1945年8月末。ジャズ史に残る大事件が起きます。

パーカーとディジーが金銭や薬物を巡るトラブルで大ゲンカし、ディジーがバンドを去ってしまったのです。

そこでディジーの代わりに抜擢されたのが、なんと弱冠19歳のマイルスでした。

クラブ「スリー・デューセズ」との契約更新の日、オーナーが「トランペットはどうするんだ?」と問いただすと、パーカーはマイルスを指差し、こう言い放ちました。

「トランペットなら、ここにいる。」

マイルスは当時の心境をこう述懐しています。

「誇らしい気持ちだったが、内心自信がないから、うまくやっていけるか不安で仕方がなかった。」

超人的なテクニックを持つディジーの後釜。プレッシャーは相当なものでした。

ディジーのように吹けないマイルスは投げ出したい気持ちになりましたが、チャーリーには逆らえないため、ヤケクソで引き受けることにしたといいます。

「クビが怖い」意外すぎるマイルスの素顔

バンドに入った頃のマイルスは、驚くほど自信がなく、いつクビを宣告されるかビクビクしていました。

クビになるのが恥ずかしくて、「クビになるくらいなら、自分から辞めてやる!」と、辞める素振りを見せて自分を守ろうとしたことさえあったといいます。

それでも、パーカーはマイルスを使い続けました。 ライヴが終わるたびに、パーカーはこう声をかけたそうです。

「明日も一緒にやるからな。」

「お前が必要だし、気に入っているよ。」

この一言で、マイルスは翌朝には「よし、今日もやってやる!」とまんまと奮い立たされるわけです。パーカーの人心掌握術(あるいは単なる気まぐれ?)が、マイルスを繋ぎ止めていたのですね。

パーカーの教えは、テクニックよりも大切なものだった

パーカーがマイルスを雇い続けたのは、マイルスが「ディジーのコピー」ではなかったからだと言われています。

「ディジーのように吹きたかったけど、自分にはできないことはやらなかった。」

インタビューではこのように語っていますが、マイルスは当時から、音数を詰め込まず「スペース(間)」を活かした独自のサウンドを持っていました。

しかし、バンドで演奏する曲はパーカーやディジー用に書かれた曲が多かったため、速いテンポの曲が多い。自分のテイストではないと思いながらも、これができなきゃニューヨークではやっていけないと必死に食らいつきました。

そして、バンドに入って2週間ほど経った頃、マイルスは不思議な感覚に包まれます。それまで吹けなかった速いフレーズが楽に吹けるようになり、手応えを感じる演奏が1日に何度かできるようになってきたのです。

ところが、それを見たパーカーは意外な一言を放ちます。

「面白くない。」

理由が分からなくて、また悩んでしまうマイルス。上手に吹けるようになったのに、なぜ?

実は、パーカーにとっては、マイルスが必死にしどろもどろになりながら、新しい何かを掴もうと懸命に吹いている姿の方が魅力的だったのです。

テクニックに走って気持ちが疎かになることを、パーカーは見抜いていました。後年、マイルスが常に自分のバンドに「若くて勢いのある新人」を入れ続けたのは、この時の原体験があったからだと言われています。

おわりに

チャーリー・パーカーは、同じメンバーで活動し続けるワーキング・バンドに強いこだわりを持っていました。ツアーを重ねることでバンドの音はタイトになり、化学反応が生まれることを知っていたからです。

マイルスもまた、パーカーのそばでその重要性を肌で感じていました。

1955年3月、パーカーの訃報を聞いたマイルスはこう決意します。

「今度は俺がワーキング・バンドを組む番だ。」

この強い意志が、ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)らを擁した「伝説のファースト・クインテット」へと繋がり、モダン・ジャズの黄金時代を切り拓いていくことになるのです。

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