どうも、ズワイガニです。
今回は新人だったマイルスが、パーカーのバンドにいた頃の話を紹介します。
初々しいマイルスが新鮮です。
マイルスが『ミントンズ・プレイハウス』に行っていた頃
ハーレムにある『ミントンズ・プレイハウス』。
ここは営業終了後にジャズ・ミュージシャンが集まって、夜な夜なセッションを行い、ビ・バップを形作ったと言われる場所です。
セロニアス・モンクがハウス・バンドのリーダーで、毎週月曜日にはディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーらが参加するのが恒例だったようで、そこにマイルスも加わります。
ディジーがステージに呼んでくれるので、マイルスもたまに吹かせてもらえるんですよ。
とにかく速いテンポの曲を演奏するので、テーマもうまく吹けないままにソロを吹かされるマイルス。
思い通りに吹けないので、とても恥ずかしい思いをしたそうですが、こうやって鍛えてくれたのが良い経験になったとも語っています。
マイルス・デイヴィスが演奏するとき、チャーリー・パーカーはニタニタ笑いながら見てくるんじゃ。セロニアス・モンクに至っては知らんぷりを決め込んでいたそうじゃよ。
マイルス、パーカーのバンドに抜擢される
マイルスが『ミントンズ・プレイハウス』に行くようになって半年ほど経った頃、パーカーとディジーが金銭と薬物のことで大ゲンカして、ディジーがバンドを辞めてしまったんです。
45年8月末、ディジーの代わりに抜擢されたのが、マイルスでした。
この時のことをマイルスは「誇らしい気持ちだったが、内心自信がないから、うまくやっていけるか不安だった」と述懐しています。
『スリー・デューセズ』というクラブとの契約が終わった日に、パーカーは契約延長をお店のオーナーに依頼しました。
しかし、オーナーはディジーが辞めることを知っていたため、トランペットはどうするか問いただしました。
すると、チャーリーはマイルスを指差します。「トランペットならここにいる。」
ディジーのように吹けないマイルスは投げ出したい気持ちになりましたが、チャーリーには逆らえないため、ヤケクソで引き受けることにしたといいます。
本当にマイルスの当時を語ったインタビューを読むと信じられないのですが、すごく自信が無さそうなんですよ。
バンドに入った頃のマイルスは、腰が引けていて、いつクビを宣告されるかビクビクしていたといいます。クビになるのが恥ずかしくて、自分から辞める素振りを見せたこともあったそうです。あのマイルスがですよ。
それでもチャーリーは、マイルスを使い続けました。
チャーリーは帰り際に、「明日も一緒にやるからな」とか「お前が必要だし気に入っている」と言ってきて、その一言で翌朝には「今日はやってやる!」とまんまと奮い立たされるわけです。
パーカーがマイルスを雇ったのは、おそらくディジーのように吹いてなかったから。
マイルスは当時からスペースを活かしたサウンドを持っていました。
ディジーのように吹きたかったけど、自分にはできないことはやらなかった。
しかし、バンドで演奏する曲はパーカーやディジー用に書かれた曲が多かったため、速いテンポの曲が多い。
自分のテイストではないと思いながらも、これができなきゃニューヨークではやっていけないと必死に食らいつきました。
この経験がよかったのだとマイルスは語っています。
バンドに入って2週間ほど経った頃、不思議なことに自分でも楽に吹けるようになったことを実感します。
いつもは吹けなかったフレーズが吹けたりして、自分の中で手応えのある演奏が1日の中で何度かできるようになってきました。
それを見てパーカーは「面白くない」と言い放ちます。
理由が分からなくて、また悩んでしまうマイルス。
気持ちよりテクニックに走ってしまっていたことが原因でした。
パーカーにとっては、必死になってしどろもどろになりながらも演奏していた方が良かったんです。
マイルスがいつもバンドに新人を入れるのは、このことが心に残っているからだったんですよ。
おわりに
パーカーは同じメンバーで活動するワーキング・バンドに強いこだわりを持っていました。
ワーキング・バンドはツアーをすることでサウンドがタイトになり、クリエイティヴィティも増していきます。
ワーキング・バンドの重要性をマイルスもパーカーのバンドにいた時から分かっていました。
55年3月、チャーリー・パーカーの死を耳にしたマイルスは「今度は俺がワーキング・バンドを組む番だ」と強く決意し、あの伝説のマイルス・バンドが誕生するのです。
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