どうも、ズワイガニです。
1940年代、ビッグバンド全盛期から時代はコンボ(少人数編成)が主流になりました。
その時代の変遷には何があったのでしょうか。
今回は、その過渡期に何が起こったのかを調べてみました。
スウィングブーム、ビッグバンドの衰退
1940年に入るまでスウィングブームに衰退の兆候はありませんでした。
しかし、1941年から終わりの始まりがやってきます。太平洋戦争です。
スウィング・ジャズがブームとなった理由に、スウィング・ジャズがダンス音楽であったことが挙げられます。
ビッグバンドはホールやキャバレーなどでの演奏が活動の場でした。
それが太平洋戦争により、戦時特別税としてダンスが課税の対象となってしまったのです。
ダンスをしている店は、飲食物に対して3割の課税(後に2.5割になりますが)を行うというのです。
売上に対して30%の課税はかなりえぐいですね。
そうなると、当然ビッグバンドは職場を失うことになります。
さらにそのころ、ラジオ放送界隈では、著作権問題が勃発しており、高すぎる既存の著作権協会ASCAPの著作権使用料に対して、ラジオ界が新たな設立した著作権協会BMIで対抗するという戦いを繰り広げていました。
当時はASCAPの方が圧倒的に曲の権利を保有していたため、多数の楽団は曲をかけることができずにいました。
さらにさらに、1942年にはAFM(アメリカ音楽家連合会)はレコード会社に対して、ストライキを敢行し、数年の間レコーディングを行わなかったといいます。
こうなるともう巡業演奏会か兵営慰問しか仕事ないじゃん…となるわけです。
しかもこうしている間にも、兵役によりバンドメンバーが引き抜かれていきます。
仕事も減り、メンバーも引き抜かれていくとなる大人数でのビッグバンド編成は難しくなっていきますよね。
こうなると、コンボ編成(少人数編成)かつ、ダンス音楽ではなく、観賞用音楽としてのジャズが徐々に徐々にフューチャーされていくことになります。
クラブ閉店後のジャム・セッション
1940年代、ビッグ・バンドは国内巡業で生計を立てることになります。
ビッグバンドでは、いかに優秀な若手でもソロをとれることは少なく、セクションワークに終始することが多かった。
そんな彼らはニューヨークへ戻ると、互いに腕を競い合うべく、クラブ閉店後に行われる即興演奏会、ジャム・セッションに参加するようになりました。
特に『ミントンズ・ハウス』が有名で、そこにはチャーリー・パーカーやセロニアス・モンク、ディジー・ガレスピーらがいました。
このジャム・セッションにより、ビ・バップが形作られていき、ジャズにイノベーションが起こります。
そこから、ビ・バップが少しずつ大衆に受入れられていくことになります。
ジャム・セッションの録音記録
当時のジャム・セッションの録音記録を聴くことができます。
当時大学生でのちにレコーディング技師となるジェリー・ニューマンが録音したビバップ誕生前夜の歴史的な記録で、モダンジャズの聖典として必携・必聴の作品である。発表当時から一部の演奏でセロニアス・モンクがピアノを弾いていると言われてきたが、現在では否定されている。
最初の6曲にモダンジャズ・ギターの開祖チャーリー・クリスチャンが参加しているが、クリスチャンは25歳で病死したため残された録音は少なく、これらセッションは極めて貴重だ。
あとの3曲はトランペットのディジー・ガレスピーがリーダーのジャム・セッション。うち2曲はやはりニューヨークのモンローズ・アップタウン・プレイハウスでの演奏。いずれも1941年の録音。出典:HMV&BOOKS「ミントンハウスのチャーリー クリスチャン」
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