こんにちは、しろうとJAZZ編集部です。
ジャズを聴き始めた人にドヤ顔で教えてやりたいジャズ・プレーヤーを紹介します♪
今回は1950年代に活躍した超絶あま〜い歌声のトランペッター。
チャーリー・パーカーに認められた男。
その名も、チェット・ベイカーです。
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「チェット・ベイカー」を素材として二次利用しています。
チェット・ベイカーってどんな人?-青年期-
チェット・ベイカーは1950年代に発生したウェストコーストジャズを象徴するトランペッターです。
1929年、オクラホマ州イェールに生まれ、父はプロのギタリスト、母はピアノを弾く音楽一家で育ちました。
その影響もあってか、12歳で協会の合唱隊に入ります。
しかし、女の子のような声で歌っていたのを父親が嫌って13歳でトロンボーンを買い与えられます。
まだ幼い彼にはトロンボーンは扱いにくそうだったため、14歳でトランペットに転向します。
そんなある日、友だちと遊んでいる時に前歯を失ってしまいます。トランペッターにとってはショッキングな出来事でしたが、それによって彼は高音を抑えたトーンとスムースなフレージングを手に入れてしまいます。なんという天才!
17歳になるころには、軍隊に入隊し、軍楽隊として演奏を行います。
19歳で除隊したのち、ロサンゼルスのエルカミーノ大学で音楽理論を習得します。
このころからチェットは、マイネル・デイヴィスやファッツ・ナバロを聴きまくるようになる模様。
そして、叙情的なトランペット・サウンドでスターへの階段を登っていくこととなるのです。
チェット・ベイカーってどんな人?-黄金期-
1950年に入り、彼はビ・バップの大スター、チャーリー・パーカーのロサンゼルスでの共演者オーディションに合格します。
そのときのことは、西海岸に来たチャーリー・パーカーに名指しで選ばれたという伝説があるほどで、1952年5月、パーカー・クインテットの一員としてステージに立ち、共演を果たします。
チェットは、パーカーに認められ、オフタイムにはパーカーを様々な名所に案内したという。なんかほのぼのエピソードだな。
彼を一躍有名にしたのは、何と言ってもバリトン・サックス奏者のジェリー・マラガンのピアノレス・カルテットでしょう。
当時革新的なピアノのいないカルテットで、チェットは生涯のレパートリーと出会うことになります。
その曲こそが、今でこそ名曲である『マイ・ファニー・バレンタイン』なのです。
同カルテット解散後、ついに自身のバンドを結成し、1954年に『Chet Baker Sings』を発表。
これが好評を得て、ニューヨークに活動の場を移し、一流ジャズメンとして活動していくこととなるのでした。
チェット・ベイカーってどんな人?-壮年期-
当時、ジャズ界だけではなく、クリエイティブな世界には使ってはいけない薬が付き物でした。
先述したジェリー・マラガンのカルテットの解散理由もジェリー・マラガンが捕まってしまったからです。
この話の流れから分かると思いますが、チェットももちろん人生を狂わされることになります。
28歳から44歳まで度々捕まったり国を追われたり国を転々としたり、前歯折られたり、まあ大変です。
しかし、なんとか前歯も直し、44歳となった彼は再びニューヨークのジャズ・クラブに戻ってくるのです!
復活した彼は、流行を追いかけるようになり、全盛期のようなスポットライトを浴びることはありませんでしたが、ヨーロッパを拠点に活動し続けました。
そして、1987年、日本での2度目の公演を成功させた翌年、オランダのホテルの部屋から転落してこの世を去ることになります。
アルバムはこれを聴くべし!
チェット・ベイカーといえば、やはりこれを聞いてほしい!
『Chet Baker Sings』
チェット・ベイカーといえばコイツがダントツの名盤。
ボーカルの甘い声に聴き惚れてほしい。あとイケメン。
その中でも、『But Not For Me』というスタンダード曲を演奏したテイクが名演と言われています。
坂道のアポロンというアニメでも取り上げられた曲ですね!
甘い声で悲観的なことを歌う切なく色っぽい曲になっています。
Chet Baker Sings、ぜひ聴いてみてください♪
まとめ
いかがでしたでしょうか?
チェット・ベイカーはイケメンで『ジャズ界のジェームス・ディーン』と呼ばれていたそうです。
やっぱりイケメンだったので、モテモテだったそうです。羨ましい。
20歳半ばにジャズ界のスターダムにまで登りつめたチェット・ベイカーの曲をぜひ聴いてみてくださいね!
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